日南海岸の南端、鵜戸崎という岬の先端に、海に向かって口を開けた洞窟がある。その中に朱塗りの社殿が建っているのが鵜戸神宮です。鳥居をくぐって石段を上るのが普通の神社の作法ですが、ここでは逆に石段を下っていく。その先に、波音が響く洞窟の本殿が待っています。
崖の洞窟がそのまま本殿になった理由
鵜戸神宮の本殿は、太平洋の荒波が長い年月をかけて岩を削ってできた海食洞の中にあります。広さはおよそ1000平方メートル。洞内に朱塗りの社殿を建て、そのまま祀る形です。周辺の鵜戸崎一帯は、令和になって国の名勝「鵜戸」に指定されています。
なぜ洞窟がそのまま聖地になったのか。鵜戸神宮の由緒書は、この洞窟を主祭神が生まれた「産殿の跡」と説明しています。産屋の跡と伝わる霊地に、そのまま社殿を構えた。地形と神話が分かちがたく結びついた結果が、この本殿の姿だと言えます。
創建については、第十代崇神天皇の御代にさかのぼると伝わる。その後、延暦元年には天台宗の僧と伝わる光喜坊快久が勅命によって初代別当(神社の祭祀と管理を担った寺院側の責任者)となりました。荒廃していた神殿を再興したと伝えられています。神社と寺院がともにこの洞窟を守ってきた時代があったことも、この社殿の歴史の一部です。
山幸彦と豊玉姫、日向神話の続き
青島神社に伝わる山幸彦と海幸彦の物語には続きがあります。海神の宮から地上に戻った山幸彦は、海神の娘・豊玉姫命と結ばれました。身重になった豊玉姫命は、出産のためにこの鵜戸の地を訪れ、海辺の洞窟に急いで産屋を建てたと伝えられています。
屋根を鵜の羽で葺き終えないうちに御子が生まれてしまいました。そのため御子は「日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)」と名づけられたと伝えられています。「鵜の羽で葺草を葺き終わらないうちに」という意味を、そのまま名前に背負った神です。この御子が、のちに初代天皇とされる神武天皇の父にあたるとされています。鵜戸神宮は、日向神話の中でも山幸彦と豊玉姫の物語の続きを担う場所として語られてきました。
石段を下って参拝する「下り宮」
鳥居をくぐったら、上らずに下る。それが鵜戸神宮です。一般的な神社は石段を上って本殿に至りますが、鵜戸神宮は逆に、鳥居から石段を下って本殿にたどり着きます。この形式は「下り宮」と呼ばれ、群馬県の一之宮貫前神社、熊本県の草部吉見神社と並んで「日本三大下り宮」に数えられています。
現在、観光客の多くが利用するのは駐車場からトンネルを抜けて洞窟へ下るルートで、徒歩10〜15分ほどです。一方、かつての表参道である「鵜戸山八丁坂」は、吹毛井港から山門まで続く約800メートルの石段の道です。段数は上り438段、下り377段で、合計815段にのぼります。この石段は尼僧が頭に磯石をかついで築いたと伝えられており、往時の参拝がどれほどの覚悟を要したかがうかがえます。
運玉とお乳岩に息づく信仰
洞窟の本殿前には、周囲約8メートルの霊石「亀石」があります。参拝者はここに向かって「運玉」と呼ばれる素焼きの玉を投げ、亀石の背にあるくぼみに入れば願いが叶うとされています。男性は左手、女性は右手で投げるのが習わしです。1950年代より前は硬貨を投げる風習でした。子どもが小銭を拾いに危険な場所まで下りてしまうことから、現在の運玉に改められました。
洞窟の壁には、乳房のような形をした「お乳岩」もある。豊玉姫命が我が子を残して海神の宮へ帰る際、乳房を岩に押し当てて別れを惜しんだという伝説に由来します。岩からしみ出す清水は、「おちちあめ」という飴の原料にもなっています。安産や育児を願う参拝者が今も絶えない場所です。
青島神社とのつながり、参拝の実用情報
青島神社の祭神は彦火火出見尊(山幸彦)と豊玉姫命。鵜戸神宮の祭神は、その二柱の間に生まれた御子です。日南海岸沿いに位置するこの二つの神社は、親から子へと続く神話でつながっています。青島から鵜戸まで足を延ばせば、日向神話の一続きの物語をたどることができます。
参拝の所要時間は、駐車場から本殿までの往復と境内の見学を含めておよそ1時間が目安です。行きは下り、帰りは上りになるため、石段の段数以上に体力を使います。歩きやすい靴で訪れてください。日南海岸沿いには道の駅なんごうやサンメッセ日南もあり、海岸線をドライブしながら合わせて回る観光客も多い区間です。青島から鵜戸神宮までは車で30〜40分ほどの距離です。



